1904年、モータリングの未来を類まれなものにするという共通の野心を持って、チャールズ・ロールズ閣下とヘンリー・ロイス卿が手を組みました。まったく異なる素性を持ちながら、ロールス・ロイス・モーター・カーズ創設者の2人は、共通したエンジニアリングへの情熱と「世界一の車」を作るという願望から、思いもよらないパートナーシップを結びました。
ロールズとロイスの出会い
1903年、ロールズは地上速度記録を更新
自らのスポーツ活動の資金を得るために、ロールズは友人のクロード・ジョンソンと共に英国で初の自動車ディーラー店の一つ、CS Rolls & Co.を立ち上げました。ふたりは共にフランスからプジョーを、ベルギーからミネルバを輸入販売しました。
完璧への本能的欲望
恵まれて育ったロールズとは対照的に、ヘンリー・ロイスは9才ですでに働いていました。1863年、イングランドのピーターバラで生まれたロイスは、運命が変わる前は新聞を売り、電報配達人として働いていました。
14才の時に、ロイスの叔母の一人がお金を払い、グレート・ノーザン鉄道で見習いを始めました。当時の傑出したエンジニアの一人の下で働いたロイスは、あらゆる機会を逃さず独学をし、夜は代数、フランス語、電気工学を勉強しました。工学の天賦の才があったロイスは Electric Light and Power Company社に就職しました。
ロイスの本当の野心は工学をフルタイムの仕事にすることでした。そこで、同僚のエンジニアの友人、アーネスト・クレアモントと事業を始め、ドアベルやダイナモのような電気部品を作るために一日中働きました。今日もまだ使われているバヨネット電球の改良品でロイスが特許を取ったのはこの頃でした。
中古のフランス車、2気筒のドコービルを買ってから、ロイスは初めて車作りに興味を持ちました。彼には完璧さへの本能的な欲求、また後にロールス・ロイス哲学の柱となる本質的な職業倫理がありました。 「今ある最高のものを基に、それをさらに良くしなさい。」
フランスのドコービルの構造的欠陥を見つけてから、ロイスはもっと良いものを創ろうと誓いました。1903末までにロイスは最初のガソリンエンジンを設計、製作し、1904年4月に最初の車、ロイス10HPを運転し、街に行きました。
Rolls-Royceの真ん中の「ハイフン」
ロイスの会社の株主で、ロールズの友人であるヘンリー・エドマンズは、彼に新しいロイス10HPを自慢していました。当時、ロールズは外国からの輸入車を販売することしかできないことに不満を募らせていたので、エドマンズはその10HPの開発者との面会を手配しました。
エドマンズは、自分が設定した面会が永遠にモータリングの未来を変えようとは、知る由もありませんでした。
ロールズとロイスは、1904年5月4日にマンチェスターで初めて出会いました。2気筒のロイス10HPを見るとすぐに、ロールズは探していたものを見つけたことが分かりました。その車でドライブをした後、ロールズは、ロールス・ロイスという名で、ロイスが作れるだけの車を何台でも売ることにその場で同意しました。
ブランドを創るにはビジョンが必要です。そこで、ロールズとロイスが車を作って販売するのに忙しい一方、ロールズのパートナーだったクロード・ジョンソンがマネージング・ディレクターの役割で介入し、駆け出しの会社の評判を高めました。広報の天才だったクロード・ジョンソンは会社の成功に不可欠だったため、「Rolls-Royce」のハイフンとして知られるようになりました。
ジョンソンは40/50HP車用の初期の広告の一つで、これを「6気筒のロールス・ロイス。最高の車の一台ではなく、世界一の車」としてプロモートしました。その瞬間、彼はそれから永遠にロールス・ロイスを連想させることになるフレーズを取り入れたのです。
ジョンソンがロールス・ロイスの車の静粛性と信頼性をアピールするために、一連の宣伝活動を指揮したことは信じられないほど効果的でした。それはロールス・ロイスの優れたパフォーマンスを実証し、世界屈指のエンジニアリングが世界的な注目を浴びました。その後どうなったかは、ご存知の通りです。